10月21日 トーク&ライブ

今日は、元共演者であるお友達のお店のイベントにゲストとしておよばれしてきました。

久しぶりに人前でトークや歌を歌わせていただきました。この世の天国があるとするなら、光に向かって心の限りに声をあげられる、あの光景だと思います。

SET LIST
1.蝉  詩曲:東山麻美
2.紫陽花のうた 詞曲:東山麻美
3.君がくれたサヨナラ 詞:東山麻美 曲:石塚徹

今夜は、お月さまと星がとてもキレイです。
皆さんのところからも見えているでしょうか。

今日、ご夫婦でご参加くださった方が私に、「幸せそうでよかったです。しばらくお顔をみれていないしブログも更新されていないから心配していました。私たちは心配するしかできないけれど…幸せそうでほんとうによかったです。」と伝えてくださいました。

会えない間も心配して、会えば変わらずに無条件に迎え入れてくださる、そんな人は日常生活で家族や親友以外には存在しません。そんなことを許してくれる人間関係はありません。だから、私はいつもとても不思議な感じがします。穴ぼこだらけの心がいつの間にかまあるくなって、ありがとうが溢れてきます。ジャムおじさんに顔をつくってもらったアンパンマンです。

あの短い時間で、私は光の速さで繋がっていく人たちの顔が見えました。皆さんに今日会えたのは、今回お声がけくださったあっくん(原田篤さん)のお陰です。あっくんに出逢えたのは作品を一緒につくった人たちのお陰です。それはもう、何十年も前の私が助けられたことです。その作品に関われたのはあの人のおかげ、またその機会をくれたあの人たちのおかげ……それが嬉しくて、思わず涙が出ました。

私が人生で何より大切なものは、そうして繋がった人たちの存在です。

私も何もできないかもしれないけれど、どうぞ皆さんお元気でいてください。
またいつか皆さんにお会いできるように、私も日々がんばります。

ありがとうございました。

 

Special thanks
原田篤 (Master&Percussion)
大里健伍 (Guitar)
石塚徹
GTripAKASAKA 

お久しぶりです。

先日のトークイベントで少しお話させていただいたことを、こちらでもご共有させていただきたいと思います。

また、私の近況を知ろうとしてくださる方は、ブログをご参照くださるようで…やはり放置しているみたいなのはいけないな、と思い、書かせていただく次第です。

 

長らくこのブログは、ファンでいてくださった皆さんとの、大切な交流の場だと思ってきました。
その意味では、私にとりましても重要なツールでした。

ですが、ここの字面だけで、私を(状態を)見えていない人から「貴女はこんな人だ」「こんな状態だ」「こんな生活だ」「運命の人だ」「何時何分にここで待っている」「今日こそ来て欲しい」などと言われても、困惑しておりました。

ちょうどその頃、プライベートでも同じことが起こっていました。
どのケースも平たく言えば同様に、「自分の思い通りになって欲しい」というものでした。
「私はパワハラ、セクハラに遭いやすい」と、先日のイベントでも笑って話していましたが、なかなか笑えるものではありません。正直しんどいことです。

自分もしんどいと同時に、相手にも「勘違いさせている」場合によっては「傷つけている」という事実もあります。
一般企業でOLをしたときには、隣りの席の初老の上司にこう言われました。
「貴女は、“おはようございます” と挨拶をするだけで、相手を勘違いさせてしまう。ややこしくなるから、特に相手の目を見て挨拶せんでよろしい。」と。どないせいっちゅうねん。

しかし、私はここにきて、自分に欠けていたものに気付きます。
相手を思いやろう、気を配ろう、慮ろう、共有しようと無意識にしてきたことが、当然ですが相手にはどう解釈されるかわかりません。
相手があることなので、最後までケツを拭くのは容易なことではありません。
つまり、自分ばかりがよかれと気遣っていても、通じる相手でなければ、それは本来の意味を成しません。
そのような不自然な状態は、不自然な事態を招きます。

現在、社会問題となっているのは、その辺のことではないでしょうかね。
未成年者の孤独や純粋さにつけこむような事件を耳にするたびに、自分のことのようにしんどくなります。

「相手をちゃんとみて選ぶ(不自然なところを見て見ぬふりしない)」「はっきりと意思表示をする」「それでも通じない相手からは逃げる」「完全に逃げ切る(縁を切る)」まるで子どもに教えるようなことを、私も出来ていませんでした。
どんなにNOを言い続けたとしても、決してひとりにはならない。そのような存在ができたからこそ、冷静に自身の弱点を省みる余裕ができたのかもしれません。

 

私はこのブログでは、感情にまかせた心情描写ではなく、頭で考えたことを書く心理描写を用いてきました。
よって、お友達とのおしゃべりのようなそれとは異なります。もっとも、私はお友達とのおしゃべりでも礼儀として頭で考えたことを言葉にしています。
自身の体験や心情や考察を、発信コードに変換してお送りしていました。
けれど、それがうまくいっておらず相手を勘違いさせたり、自分をも傷つけたのでしょうから、潔く受け止めていました。

これからは十分に気をつけて、自己紹介となるような文章を掲載していけたらと思っております。
少し成長した私は、嫌だな、不自然だな、と思ったことからは全力で逃げて身を守ります(笑)
予めご容赦いただけると幸いでございます。

 

そして、もし、私と同じ思いをしている人がいたなら……
これって不自然だなって思ったら、引き返す勇気をもってください。
たぶん、いま、大人だって自分の自然体に気付けないでいる人がほとんどだと思います。
当たり前のことさえ解っていればいいのです。
例えば、会ったこともない人が貴方をすべて理解できるはずがありません。
貴方自身も、相手をすべて解ることはできません。
そのような状態で、簡単に弱みや純粋に自分のすべてをみせてしまってはいけません。相手の都合よく、利用させてしまうかも知れません。
困ったときにはぜひ、照れ臭くても、ほんとうの貴方を見ている人を頼ってください。そんな人をひとり、貴方のなかで決めておいてください。
こんな世の中だからと、うまくスルーすることを身につけなきゃなんて、思わないでいいです。
嫌な気持ちになったなら、それは、“不自然なことを教えてくれている合図” です。
その力を大切にしましょう。

 

さて、遅くなりましたが、先日のイベントにお越しくださったみなさん、
お話をきいてくださって、歌をきてくださって、ありがとうございました!
そして、お会いできなかったみなさんも、またどこかでお会いしましょう!

 

今夜は満月のようです。

「足元ばかりみていないで、たまには星を見上げてみましょう。」
by  Stephen Hawking

 

 

私、出没いたします。

G-Trip-AKASAKAオリジナル企画
『今の私の生きる道vol.5』
司会:原田篤 ゲスト:東山麻美
10月21日(日) 17時open 18時start

▼ご予約(キャンセル)フォームはこちら
https://www.quartet-online.net/ticket/ghigashiyama
お問合せ:0355448679

あっくん(原田 篤さん)から、うちのお店に遊びに来ない?とお誘いいただきまして、近況なんかをお話しさせていただこうと思っております。
よろしければ、ご一緒にいかがですか?

あっくんとは、東映繋がり(我々の二代あとの『救急戦隊ゴーゴーファイブ』にご出演)で、『サムライデュオ』というお芝居で共演させていただき、そういえば奥様の秋本奈緒美さんと一緒にお部屋に遊びに来てくれたこともあったりのお付き合いですが、お会いするのは久しぶりなので楽しみです。

台風の夜、どうぞ皆さんお気をつけください。

 

ダイアログ・イン・サイレンス

ダイアログ・イン・ザ・ダークに続き、ダイアログ・イン・サイレンスに参加してきました。

アテンドしてくださる方の魅力と、最後にポツリと聴かせてくださる本音に、このイベントの価値と意味を知ります。
音のない世界で伝え合うことの素晴らしさを教えてもらった私たちに、アテンドのカリンさんはこう仰いました。
「聞こえず訊ねたいことがあっても、最近はみんな下ばかりを見ているから声をかけ辛く、淋しいです……」てのひらをスマホにしながら。

先日、発車するホームで(恐らく熱中症で)ぐったりと倒れこんでいる方がいたのですが、ホームの全員がスマホを見て誰も気付いていなくて⁉︎ 止むを得ず急ぎ車内から電話をして駅に知らせたことを思い出しました。
もっとあたたかい社会になればいいですね……カリンさんの言葉に願いを重ねるのでした。

お子様にもぜひ参加していただきたいなあ。

https://www.dialogue-in-silence.jp

太陽の塔の内臓

その取り壊されるはずだった化石の体内には、脈々と赤い血が通っていた。

体内行きのチケットに押された入場済スタンプは万博当時と同じものだそうで、太陽の塔とタロさんに会える♪と思っていたけれど、当時訪れた母にも会えた気がしてなんだか嬉しかった。
母の記憶をきけば、「気持ち悪かった」だったが、入場してすぐに「確かに!」と共感。さすがタロさん、時代を超えて目論見通りである。

太陽の塔の内臓は、にゅるにゅるっとしたタロさんお馴染みの力強い曲線の動脈(生命の樹)が天井高く伸びており、バカでかい妙にリアルな動物たちが高所の枝に鎮座している。
あー、やばいな、これ……タロさんは、高所恐怖症にも容赦はないらしい。タロさんの芸術には挑まなくてはならないのだ。

リニューアル箇所など、ガイドさんに小学生のように質問しては、〝あー、タロさん的には、「そんな飾った光じゃなくていいよ。当時のまんま青と赤の単色の光でも、こいつらは十分に躍動しているじゃないか」とか言いそうだなあ…そもそも「未来?進歩?なんて言われても、過去も現在もなにも決定してないじゃないか。なにが人類の進化だ。縄文土器の凄さをみてみろ!」的なことを仰っていたみたいだしなあ。〟などと時代の狭間で考えさせられた。

とはいえ、無数の柔突起は、胎内音を反響させるためのデザインであったとか、恐竜の口や腹が動くなんてのは当時は驚愕の技術だったみたいだし、(ガイドさん曰く、メンテが大変だし、今じゃ珍しいものでもないので稼働させていないんだとか、残念) その機器が内臓されているブロントザウルスなんて1トンもあるらしく、それがえらい高所の枝にのっかっているもんで、撤去しようにも出来ないのだとか。タロさん、ハンパないな…と、あらためて舌を巻く。
恐らく、生命の樹なんて、タロさんの意思なくしては通せなかった企画だろうと思う。 「人間はどんどん進化していくが、肉体には根源的なものと未来が含まれている。人間は素晴らしくも悲しくもある。過去を振り返り、いま置かれている立場とくらべどちらが素晴らしいか考えて欲しい」
いま置かれている立場といえば、ちょうど太陽の塔の腕の脂肪とクロマニヨン人が見える頃、私は無邪気に下を覗き込む子供たちを横目に、前かがみに壁や床に張り付いていた……(高所限界)。見兼ねたガイドさんが、エレベータで地上へ戻してくださった。

ーーたとえ孤独でも時代に迎合するなーー
昔、おっかなく見えた化け物は、いまは頼もしく強く大きな父の背中のようである。

手塚治虫記念館

ここは、大人がひとりで引き篭もる場所なのだ。時間の許す限り哲学(本質を洞察することで問題を解き明かすための考え方を見出す営み)と向き合うことができる。

今回の20分短編映画『オサムとムサシ』に涙し、『手塚治虫 大いに語る』の画面にしがみついて、「天才かて人間、醜さが影となり光を生むこと」に安堵する。
幼い頃から、「摘んだらお花が可哀想。ゴミを捨てたら地球の生き物みんなが困る」などと自然の中で育てられ、宝塚歌劇に憧れて歌と芝居の道を選んだ私としては手塚治虫さんを他人とは思えず、ここに来るといつも自身の原点に立ち返れるような気がする。おまけに700円の入場料で手塚漫画読み放題ときたもんだ……内緒にしたい。

不思議と毎度、哲学を〝教えてくださる宝塚の父〟と、〝いつも語り合わせてくださる東京の父〟のコラボのタイミングに当たる。

私はまったくもってファザコンである。

歌手

久し振りにライブをした。
ベッドでかろうじて呼吸する祖母が観客で。
前回まではユニゾンだったけど、今回はソロだった。
夕焼け小焼け、瀬戸の花嫁、旅人へ、瑠璃色の地球
美空ひばりさんみたく、なんとしても歌い続けるのが歌手と言いきかせたが感情はとめられず…心配してか祖母が目を開いた。だから私は歌手に向いていない。
 

瀬戸

お墓参りへ。
父や祖父がこんなに美しい街に眠っているなんて、いままで知らなかった。
こんなに恵まれた穏やかな海に囲まれて育ったなんて、いままで知らなかった。
免許とってよかった。

或る一日

ーおじい
もう夕方ですね
今日もお疲れさまです
 
そうやな
なんとか終えることができました
感謝いたします
おまえも身体だけは気ぃつけてな

ーうん
おじいは人生で何が一番大変やった?

そらあ
物事はぜんぶ自分の思い通りいかんことや
あまり無理したらあかんしな
かといってあまえとってもあかんしな

ーぜんぶ思い通りにいかんか?

うまいこといってる思ても
かならず乗り越えなあかんことがでてくる
それを越える繰り返しが人生や

ーおじいもそうかあ
私もあまえとったらあかんなあ
 
最高の孫娘だと思ってるよ俺はおまえに対して
厚く感謝申し上げます

ーいやいやこちらこそ
最高の祖父だと思ってますよ
厚く感謝申し上げます

あとは
静かにおばあちゃんのそばへ行けたらいいなと思ってます
これ以上のわがままは願ってはいかん

ーそっか
いずれ皆んな順々にあとを追いかけますから

あんまり急いて追いかけないでくれ
お願いいたします
心配かけてばかりで申し訳ない

ーお互いさまや
繋がってるということは
心配かけるってことやもんなあ

そうやなあ
 

継承

母と二人でみる、祖母の遺作。
ものすごい数から、お気に入りを拝借。
この才能、継承できなかったね…なんていいながら祖母の意思をたどる。
私が、野の花を好きな理由がわかる。
 
 

自分について

人生の折り返し地点にて考える。

・他人のレールには乗れないこと。
・他人との競争よりも、時間を味わうことに価値を見出したいこと。
・いつの時もプレイヤー(享受)でいたいということ。
・この世で美しいものや心を探求したいということ。
・時間と自然に逆らわない生き方(いい時間だった)を意識すること。

 

タイ

 

お友達のオススメもあり、GWはタイへ行ってきました🇹🇭
飛行機(高所)恐怖症の私は過去最長フライト6時間をクリアしました✨
昨年に自動車免許を取得して以来、少し人工の力を信じられるようになったことと、呑気に隣りに居てくれた旦那さんのお陰かも知れません。
スワンナプーム空港✈️→パタヤビーチ→バンコクと強行でしたが、非常に感慨深い旅でした。

特にパタヤで商いをする人々が、ただそこに〝生きる〟ということに誇り高かったこと。
そのため懐広く優しい瞳をしていること。日本のコンテンツが広く愛されていること。(タイ版メガレンジャーの動画を見せながら演者の私を歓迎してくれたので、つい嬉しくて変身ポーズでお返ししました)。

19世紀ラーマ2世御用達チャオプラヤ川沿いにある寺院(三島由紀夫の小説『暁の寺』の舞台となった)ワット・アルンがカラフルで美しかったこと。

何よりも忘れられない出来事がありました。
大型ショッピングモール Siam Paragon のフードコートでタイ最後の夕食をしていた時のこと。
食事を運ぶ私達のために椅子を移動して道をあけてくれた10歳くらいの少女がいました。なんだかそれが嬉しくて、食事を済ませて少し残高があったチャージカードを「さっきは有難う。もう使わないからよかったら使って」と御礼を言って差し上げると、それはそれは嬉しそうな顔をしてお母様と思われる方とさっそく何か買物に出かけられた様子でした。
って…よく考えたら残高は16bahtしかなくて、何か買えるような金額ではありません。それに、よく考えたらとても失礼な行為だったかも知れない…と猛省していると、
嬉しそうに手にコーラ(50baht)を持った女の子とお母さんが席に戻って来られたので、補填してくれたお母さんに申し訳なく思いつつ席を立とうとしたところ…スマホを持ったお母さんが私に、娘と一緒に写真を撮ってくれと言うのです。何がなんだか分からずに、お父さんカメラマンに向かってお嬢さんとお母さんに寄り添って写真に収まりました。彼女のおかっぱ髪と華奢な肩とピンクのチェックのワンピースに、なんだか懐かしさを覚えました。そして、お母さんが私の頬にキスをくれました。一瞬、心の泉が吹き出るような感覚がしました。
びっくりしてしまって、こちらのカメラでお願いするのを忘れてしまいました。
唖然とする私に夫が「Amazing girl ! いつかあの子が大きくなったら、貴女に憧れて日本に来てくれるかもしれないね」と言うので、何となく不思議な感じがしました。
日頃から自分が大切にしているものが世界共通として認めてもらえた気がしました。通りすがりに近い出逢いでしたが、あれほど別れが寂しかったことはありません。Siam 駅に向かう道すがら、同志に祈りました。〝いつか傷つくことがあるかも知れないけど、貴女の良さを大切にしてね…。〟と。

アイデンティティを取り戻した気がした、素晴らしい旅になりました。

 

双方向

ネットが普及し容易な双方向コミュニケーションが一般化して、はや一時代を築いている。

けれど私は、書店に並ぶ本のタイトルを選ぶ楽しみや、見たくもないゴシップをスルーする権利は欲しい。なぜなら情報というものをそこまで信じていないし、価値あるものだけを必要としているから。特に文字だけのコミュニケーションは危険さえ感じている。ペンは剣よりも強しとはよくいったもので、ウィルスメールと同様、つい受け入れてしまったら最後、相手の思惑に少なからず侵食されてしまう。

最近よく、〝東山さんにコメントを送りたいのですがどこにアクセスすればよいですか〟というご質問を頂戴しているようですが、真心をもって私にメッセージを届けようとしてくださったお気持ちは大変有難い。
実際にその幸福感を得たいとも思うけれど、水際で制限をかけている以上、それは諦めなくてはいけず…申し訳ない。

そもそも表現者としての仕事は、それを通して皆さんに娯楽を与えることであり、それが夢うつつであるからこその魅力であったはずだが…もうその時代は懐かしい。

そもそもコミュニケーションとはそれほど容易なことではない。相手の背景や顔色や声色、時間軸や距離感、あらゆる情報を読み取り行うもので、本来それを読み解く本能が備わっているはずなのに、我々は便利さや楽を追求し〝いいとこ取り〟しようとすることで、引き換えにその力を忘れかけている。

貴方ってこんな人物だ(そうあって欲しい)、貴方は間違っている、貴方はこちらをもっと理解するべきだ、貴方はこちらの価値観に服従するべきだ云々……もはや、この事態の理解が追いつかない。

表現することを超えた範囲で、誰かのご期待に沿うことは出来ないと自身の器量のなさを認めた結果でもある。

私のように疲れている人はきっとどこかにいるはずである。誰かの無責任な文字に傷つき、胸を痛めてしまっているような誰かが。
そんな誰かを勇気付けることが出来たらと、私は、私が感じるままひとつの表現をさせていただいている。