お久しぶりです。

先日のトークイベントで少しお話させていただいたことを、こちらでもご共有させていただきたいと思います。

また、私の近況を知ろうとしてくださる方は、ブログをご参照くださるようで…やはり放置しているみたいなのはいけないな、と思い、書かせていただく次第です。

 

長らくこのブログは、ファンでいてくださった皆さんとの、大切な交流の場だと思ってきました。
その意味では、私にとりましても重要なツールでした。

ですが、ここの字面だけで、私を(状態を)見えていない人から「貴女はこんな人だ」「こんな状態だ」「こんな生活だ」「運命の人だ」「何時何分にここで待っている」「今日こそ来て欲しい」などと言われても、困惑しておりました。

ちょうどその頃、プライベートでも同じことが起こっていました。
どのケースも平たく言えば同様に、「自分の思い通りになって欲しい」というものでした。
「私はパワハラ、セクハラに遭いやすい」と、先日のイベントでも笑って話していましたが、なかなか笑えるものではありません。正直しんどいことです。

自分もしんどいと同時に、相手にも「勘違いさせている」場合によっては「傷つけている」という事実もあります。
一般企業でOLをしたときには、隣りの席の初老の上司にこう言われました。
「貴女は、“おはようございます” と挨拶をするだけで、相手を勘違いさせてしまう。ややこしくなるから、特に相手の目を見て挨拶せんでよろしい。」と。どないせいっちゅうねん。

しかし、私はここにきて、自分に欠けていたものに気付きます。
相手を思いやろう、気を配ろう、慮ろう、共有しようと無意識にしてきたことが、当然ですが相手にはどう解釈されるかわかりません。
相手があることなので、最後までケツを拭くのは容易なことではありません。
つまり、自分ばかりがよかれと気遣っていても、通じる相手でなければ、それは本来の意味を成しません。
そのような不自然な状態は、不自然な事態を招きます。

現在、社会問題となっているのは、その辺のことではないでしょうかね。
未成年者の孤独や純粋さにつけこむような事件を耳にするたびに、自分のことのようにしんどくなります。

「相手をちゃんとみて選ぶ(不自然なところを見て見ぬふりしない)」「はっきりと意思表示をする」「それでも通じない相手からは逃げる」「完全に逃げ切る(縁を切る)」まるで子どもに教えるようなことを、私も出来ていませんでした。
どんなにNOを言い続けたとしても、決してひとりにはならない。そのような存在ができたからこそ、冷静に自身の弱点を省みる余裕ができたのかもしれません。

 

私はこのブログでは、感情にまかせた心情描写ではなく、頭で考えたことを書く心理描写を用いてきました。
よって、お友達とのおしゃべりのようなそれとは異なります。もっとも、私はお友達とのおしゃべりでも礼儀として頭で考えたことを言葉にしています。
自身の体験や心情や考察を、発信コードに変換してお送りしていました。
けれど、それがうまくいっておらず相手を勘違いさせたり、自分をも傷つけたのでしょうから、潔く受け止めていました。

これからは十分に気をつけて、自己紹介となるような文章を掲載していけたらと思っております。
少し成長した私は、嫌だな、不自然だな、と思ったことからは全力で逃げて身を守ります(笑)
予めご容赦いただけると幸いでございます。

 

そして、もし、私と同じ思いをしている人がいたなら……
これって不自然だなって思ったら、引き返す勇気をもってください。
たぶん、いま、大人だって自分の自然体に気付けないでいる人がほとんどだと思います。
当たり前のことさえ解っていればいいのです。
例えば、会ったこともない人が貴方をすべて理解できるはずがありません。
貴方自身も、相手をすべて解ることはできません。
そのような状態で、簡単に弱みや純粋に自分のすべてをみせてしまってはいけません。相手の都合よく、利用させてしまうかも知れません。
困ったときにはぜひ、照れ臭くても、ほんとうの貴方を見ている人を頼ってください。そんな人をひとり、貴方のなかで決めておいてください。
こんな世の中だからと、うまくスルーすることを身につけなきゃなんて、思わないでいいです。
嫌な気持ちになったなら、それは、“不自然なことを教えてくれている合図” です。
その力を大切にしましょう。

 

さて、遅くなりましたが、先日のイベントにお越しくださったみなさん、
お話をきいてくださって、歌をきてくださって、ありがとうございました!
そして、お会いできなかったみなさんも、またどこかでお会いしましょう!

 

今夜は満月のようです。

「足元ばかりみていないで、たまには星を見上げてみましょう。」
by  Stephen Hawking

 

 

ダイアログ・イン・サイレンス

ダイアログ・イン・ザ・ダークに続き、ダイアログ・イン・サイレンスに参加してきました。

アテンドしてくださる方の魅力と、最後にポツリと聴かせてくださる本音に、このイベントの価値と意味を知ります。
音のない世界で伝え合うことの素晴らしさを教えてもらった私たちに、アテンドのカリンさんはこう仰いました。
「聞こえず訊ねたいことがあっても、最近はみんな下ばかりを見ているから声をかけ辛く、淋しいです……」てのひらをスマホにしながら。

先日、発車するホームで(恐らく熱中症で)ぐったりと倒れこんでいる方がいたのですが、ホームの全員がスマホを見て誰も気付いていなくて⁉︎ 止むを得ず急ぎ車内から電話をして駅に知らせたことを思い出しました。
もっとあたたかい社会になればいいですね……カリンさんの言葉に願いを重ねるのでした。

お子様にもぜひ参加していただきたいなあ。

https://www.dialogue-in-silence.jp

太陽の塔の内臓

その取り壊されるはずだった化石の体内には、脈々と赤い血が通っていた。

体内行きのチケットに押された入場済スタンプは万博当時と同じものだそうで、太陽の塔とタロさんに会える♪と思っていたけれど、当時訪れた母にも会えた気がしてなんだか嬉しかった。
母の記憶をきけば、「気持ち悪かった」だったが、入場してすぐに「確かに!」と共感。さすがタロさん、時代を超えて目論見通りである。

太陽の塔の内臓は、にゅるにゅるっとしたタロさんお馴染みの力強い曲線の動脈(生命の樹)が天井高く伸びており、バカでかい妙にリアルな動物たちが高所の枝に鎮座している。
あー、やばいな、これ……タロさんは、高所恐怖症にも容赦はないらしい。タロさんの芸術には挑まなくてはならないのだ。

リニューアル箇所など、ガイドさんに小学生のように質問しては、〝あー、タロさん的には、「そんな飾った光じゃなくていいよ。当時のまんま青と赤の単色の光でも、こいつらは十分に躍動しているじゃないか」とか言いそうだなあ…そもそも「未来?進歩?なんて言われても、過去も現在もなにも決定してないじゃないか。なにが人類の進化だ。縄文土器の凄さをみてみろ!」的なことを仰っていたみたいだしなあ。〟などと時代の狭間で考えさせられた。

とはいえ、無数の柔突起は、胎内音を反響させるためのデザインであったとか、恐竜の口や腹が動くなんてのは当時は驚愕の技術だったみたいだし、(ガイドさん曰く、メンテが大変だし、今じゃ珍しいものでもないので稼働させていないんだとか、残念) その機器が内臓されているブロントザウルスなんて1トンもあるらしく、それがえらい高所の枝にのっかっているもんで、撤去しようにも出来ないのだとか。タロさん、ハンパないな…と、あらためて舌を巻く。
恐らく、生命の樹なんて、タロさんの意思なくしては通せなかった企画だろうと思う。 「人間はどんどん進化していくが、肉体には根源的なものと未来が含まれている。人間は素晴らしくも悲しくもある。過去を振り返り、いま置かれている立場とくらべどちらが素晴らしいか考えて欲しい」
いま置かれている立場といえば、ちょうど太陽の塔の腕の脂肪とクロマニヨン人が見える頃、私は無邪気に下を覗き込む子供たちを横目に、前かがみに壁や床に張り付いていた……(高所限界)。見兼ねたガイドさんが、エレベータで地上へ戻してくださった。

ーーたとえ孤独でも時代に迎合するなーー
昔、おっかなく見えた化け物は、いまは頼もしく強く大きな父の背中のようである。

手塚治虫記念館

ここは、大人がひとりで引き篭もる場所なのだ。時間の許す限り哲学(本質を洞察することで問題を解き明かすための考え方を見出す営み)と向き合うことができる。

今回の20分短編映画『オサムとムサシ』に涙し、『手塚治虫 大いに語る』の画面にしがみついて、「天才かて人間、醜さが影となり光を生むこと」に安堵する。
幼い頃から、「摘んだらお花が可哀想。ゴミを捨てたら地球の生き物みんなが困る」などと自然の中で育てられ、宝塚歌劇に憧れて歌と芝居の道を選んだ私としては手塚治虫さんを他人とは思えず、ここに来るといつも自身の原点に立ち返れるような気がする。おまけに700円の入場料で手塚漫画読み放題ときたもんだ……内緒にしたい。

不思議と毎度、哲学を〝教えてくださる宝塚の父〟と、〝いつも語り合わせてくださる東京の父〟のコラボのタイミングに当たる。

私はまったくもってファザコンである。

歌手

久し振りにライブをした。
ベッドでかろうじて呼吸する祖母が観客で。
前回まではユニゾンだったけど、今回はソロだった。
夕焼け小焼け、瀬戸の花嫁、旅人へ、瑠璃色の地球
美空ひばりさんみたく、なんとしても歌い続けるのが歌手と言いきかせたが感情はとめられず…心配してか祖母が目を開いた。だから私は歌手に向いていない。
 

瀬戸

お墓参りへ。
父や祖父がこんなに美しい街に眠っているなんて、いままで知らなかった。
こんなに恵まれた穏やかな海に囲まれて育ったなんて、いままで知らなかった。
免許とってよかった。

或る一日

ーおじい
もう夕方ですね
今日もお疲れさまです
 
そうやな
なんとか終えることができました
感謝いたします
おまえも身体だけは気ぃつけてな

ーうん
おじいは人生で何が一番大変やった?

そらあ
物事はぜんぶ自分の思い通りいかんことや
あまり無理したらあかんしな
かといってあまえとってもあかんしな

ーぜんぶ思い通りにいかんか?

うまいこといってる思ても
かならず乗り越えなあかんことがでてくる
それを越える繰り返しが人生や

ーおじいもそうかあ
私もあまえとったらあかんなあ
 
最高の孫娘だと思ってるよ俺はおまえに対して
厚く感謝申し上げます

ーいやいやこちらこそ
最高の祖父だと思ってますよ
厚く感謝申し上げます

あとは
静かにおばあちゃんのそばへ行けたらいいなと思ってます
これ以上のわがままは願ってはいかん

ーそっか
いずれ皆んな順々にあとを追いかけますから

あんまり急いて追いかけないでくれ
お願いいたします
心配かけてばかりで申し訳ない

ーお互いさまや
繋がってるということは
心配かけるってことやもんなあ

そうやなあ
 

継承

母と二人でみる、祖母の遺作。
ものすごい数から、お気に入りを拝借。
この才能、継承できなかったね…なんていいながら祖母の意思をたどる。
私が、野の花を好きな理由がわかる。
 
 

職場におけるメタ化

【職場におけるメタ化】
私は女優としてのお仕事で、撮影待ちの度にわざわざスタッフさんが椅子を持って来てくださることに遠慮してしまい、ど〜うしても慣れなかった。

先日、NHK朝ドラヒロインの葵わかなさんのお話で、「私はヒロインとして当たり前のように皆さんに助けてもらえるけれど、脇役の方やスタッフの方は誰に助けてもらえるの?と考えて……ならば、私は皆さんがこの現場を好きになるように頑張らなきゃという責任を感じた。」と話されていた。
葵さんがオーディションに合格して撮影がスタートしたのは若干18歳。〝この人は若くして本物の座長だ〟と畏敬の念を覚えた。これを【メタ化(客観化)】というのだろうか。若干18歳でいきなりアサインされた国民的コンテンツ制作現場において、いまこの環境、状況、組織において、自分がどの立ち位置におり、どんな役割を担っているのかを正確に把握できていることになる。(その考えはしっかり共演者スタッフに伝わっていた様子)

そうなのだ、スタッフさんが私に椅子を持って来てくださるのは、私に親切にするためでも姫扱いするためでもなく、関わる作品を向上させるため、画に残る演者のコンディションを考えてのこと、即ち〝仕事として〟やっていたのだ。

あるドラマの撮影で、私は主演の木村拓哉さんの頬をぶん殴るという役だった。
連ドラという出来上がった現場の空気に、チョイ役で(しかもそんな役で)出演するというのはかなりのプレッシャーである。張り詰めた緊張のなかで出番を待っていると、そこに居るはずのない主演俳優が黙って私の隣の席で雑誌を読んでいた。(な、なぜここに…?!)
間が持たず思い切って、「あの、◯役の◯です。後ほどよろしくお願いします」と言えば、「思い切りやっていいから。女の子に殴られるの好きだから」とだけ言い残して去って行かれた…。
つまり、チョイ役の私が演りやすいように緊張をほぐしに来てくださったのだ。
一見、自分の表現さえできればよい世界に見えるかもしれないが全くもって違う。そのとき私は、〝座長(おさ)〟が何たるかを知った。

職場において個の自由が叫ばれる昨今、〝チームプレー〟の意味を履き違えている人が多いなあと感じてしまう。
それは若い方に限った話ではない。
チームプレーとは、明確な共通の最終目標に向かって、互いの能力を持ち寄り高めあうことであり、仲良しこよしや利己的に都合よく利用(搾取)し合うものではない。

そういえば最近、〝この仕事は、エンドロールに関わった人すべてがクレジットされる仕事と違うから……〟みたいな言葉を使う人もいたが、もしかして、私のいた環境が特殊だったからか…??などとも思うが、
いや、少なくとも、自分はリスペクトされなくてもよいと考える人はいないはずだ。
たったひとりで仕事が完結する人もいないはずだ。
ただの“仕事をする”ではなく、ともに〝質のよい仕事〟ができるか否かは、各々がその視点をもっているかどうかかと思う。
なかなかそういう現場も少ないのだけれど…そんなチームと出会ったときの幸福感といったら、ないのだけど。

ホーキング博士の死

ー 足元ばかり見ていないで、星空を見上げることも忘れないで ー

ここ数日、ざわざわしている……。
『ホーキング、宇宙を語る』を読んだ若いときから(正しくは途中で活字を理解するのを諦めて図解だけを目で追った) この人は、ヒトの域を完全に超えている……と一目置いている。その人が2014年の時点で、AIが人類に破滅をもたらすと予言した。
「AIは人間の指示を受けずに自分で進化を遂げ、自身で再設計を行う形で発展を続けていく。生物的な限界を持つ人間はこの進化に追いつけず、やがてAIの能力が人間を超えていく」と…。

頭からAIを否定するわけではないが、Facebookのチャットボットが勝手に会話をはじめたというニュースを耳にして、ひぃ…っ!と恐れ慄いたのは、他でもないこの方の予言があったからだ。
でも、どこかで安心していたんだ…この人がいれば、この人がきっと警鐘を鳴らして、AIに勝る知恵でなんとかしてくれると。ちょうど銀河鉄道999の鉄郎のように、人間自身が機械化すること(テクノロジーの進化)がまるで完全な未来を意味すると信じて突き進んでしまう人類を軌道修正してくれる、と。

本質を見極めようとする者を失うことは人類の損益だ…こんなにも、ざわざわする…。
あらためて、テクノロジーの進化にはストーリーテラーが必要だと感じる。