『君の名は。』

 

を、ひとりで観に行った。

こんな公開してすぐに。

わざわざ混む夜の時間帯に。

隙あらばすぐに。

 

新海誠 × RADWIMPS なら、もう、行くしかあるまい。

 

はあ、、、、、、、、、、私は、

 

新海誠の世界の住人といっても過言ではない。

 

 

新海さんも、野田さんも、

真っ直ぐに表現している。恐れずに。

それでも、この時代でも、あんなにたくさんの人の心を打つんだ。

 

いろんな意味で、泣けた。

 

 

痺れる

 

桑田佳祐「偉大なる歌謡曲に感謝〜東京の唄〜」

というテレビ番組に釘付けになってしまい、

すっかり仕事の手がお留守になってしまっている。

 

かっこいいんだよ、ステージ演出も、歌謡曲のアレンジも、生演奏も、もちろん桑田さんのダンディズムも。

みちゃう、みちゃうなあ…いい曲ばっかだなあ…!!

昭和の歌詞は素晴らしい!!

ちゃんと感覚の目盛りが小さいのよねぇ

 

よし、決めた

横濱ジャズプロムナードでは、せっかくジャズフェスに出させてもらうんだから、昭和のジャズ曲も歌おうっと!

自分のオリジナル曲のジャズアレンジしてもらうのも楽しみだけどね♪

よかったら、お買い物ついでにちょいと立ち寄ってみて。念願の初ストリートライブなの♪

10/8(土)の15:40~16:20 コレットマーレにて

 

しっかし、子供のときはそうでもなかったけど、いまになってみると桑田さん、マジで痺れるなあ〜! ;;

なんていうか、「若い衆よ!これが音楽なんだぞよ〜!」っていう、ユーモアの中にも信念を感じるっそれに感動する!

 

 

「応援するよ」

 

って言ってくださった方が、誰かをご紹介くださって

またその方がまた「応援するよ」って、誰かをご紹介くださって…

あっちゅう間に、鼻血ブーして逆流して脳天までいっちゃうくらいすごい方にも繋がって…

 

どうして? どうして、そんなに骨を折ってくださるだろうって、こんな自分ぽっちに何があるんだろうって……

 

まるで、全国ネットで放送されるカメラの前にはじめて立った、

キャパを超えてしまった、(はじめてのアップの顔は…生気を失って半目になっていた)…あの時みたく、

何処にも、逃げ場はない。

 

でも今日、尊敬する女性が言ってくださった。

「あなたは人を繋ぐ力がある」と。

 

自分のことなんて、ほんとうは自分じゃ解らない。

だから自分で限界を決めちゃいけない。

こうしたいっていう信念が、いつかきっと、誰かに繋がる。

 

自分の色を素敵に塗ってもらったなら、魂がぴかぴかしはじめて、

何処にでもいける気がする。

いつだって、誰かのおかげさまで、生きてる。

 

 

パクチー

 

小さい頃から父がつくってくれた料理に必ず入っていたパクチは、慣れ親しんだ味。

庭にわさわさ生えていた。

 

 

最近パクチブーム?

 

友達とパクチ漬け♪

 

 

苦しいときは

 

得てして、自分だけって思っちゃうからな

そんなわけないのにな

 

でも、自分だけって思っちゃってるモードは、ご本人しかなんともできないからな

エンガチョするか、そっと遠くから見守るしかないな

 

気をつけよう

どっちも

 

 

なんだかな

 

最近のニュースみてたら…

 

自分のことしか見えてないんだろうな

相手の身になって考えることすら気付くこともできないんだろうな

弱いものイジメか逆恨みで承認欲求を満たすしかないんだな

自分で自分を持てあまして処理できないんだろうな

 

病んでんな。

 

怖いよな…

 

 

火星人

 

久々に銀座の街を歩く。

大人の街だなあと思う。なぜって…

 

どのビルも モスキート音 出しすぎーーーっっ

 

ちょいと歩けば頭を抱えてうずくまる私を、怪訝な顔で通り過ぎる人々…(そら怖いわなあ)

誰かこの周波を吸収するイヤホン作って欲しい…アタマイタイ…マーズアタックみたい…
(´;ω;`)

 

 

晴耕雨読

 

好きな言葉だ。

 

午後に予定されていたミーティングはさすがにリスケになったため、

本を読みあさる。

 

もう夕方…そろそろ関東の嵐も去る。

 

仕事するか。

 

 

お盆参り

 

今年はごめんしてもらおうか…なんて考えていたけれど、
お盆も間も無く終わるところで、お墓に帰ってきたご先祖様の気持ちを考えるといてもたってもおられず、キャリーバックをクローゼットから引っ張り出した。

父方のお墓は、新幹線で4時間、タクシーで15分の山の麓にある。草も生えるし、水道も近くにないし、ぱっと行って拝めばよいという場所ではなく…この装備となる。

 

夏の炎天下での墓参りをなめちゃいけない。
大きなツバの麦わら帽子の下のタオルは絞れるほどの汗で、〝こりゃあ、下手すりゃ私が死ぬぞ…〟なんて気が遠くなったところで、冷え冷えの迎えのタクシーが助けてくれた。

タクシーを降りると、脱水症状の身体を転がして駅前のホテルのロビーへ。席に着くなりアイスコーヒーを2つ頼んだ。
そういえば…生前の父の彼女さんと一緒に座ったのも、この席だった。「一緒にお墓参りに連れて行ってくれてありがとう、ありがとう」と何度も何度も、今生の別れのように大袈裟にお礼を言われたことを覚えている。大袈裟ではなかったわけだけども。彼女さんさえよければ、待ち合わせて何度も一緒に来ればよかった…。あの日も、日光を浴びてはいけない病気なのだと、手袋、帽子、日傘と完全防備だった。無理させたかもしれない…。
でも、もうその心配はないのだ。父は亡くなってからたった二度だけ、私の夢枕に立ったことがある。葬儀が終わった数日後、木にしがみついて泣いている私の後ろに立ち、「何泣いとんねん」とビジネススーツ姿で現れた。二度目は、彼女さんの死を知ってひどく落ち込んでいたとき。「言うとかなあかんことがある」そう言った父の後方に隠れた彼女さんの姿を見て、目が覚めた。

もうとっくに許しているよ、一緒に幸せになって。と、直接言ってあげればよかった…。
もちろん、母には言えないけれど。(だから私に断りに来たんだろうけど)

 

いつもは、お墓参り→祖母の介護施設→実家と、一人で黙々と新幹線で移動したら夜になっていた。
旧友に会おうにも、みな家族と過ごしているだろうし、忙しいだろうし…と、連絡もしなかった。
今回に限ってはひとりだけ同じ独身の友達にだけ連絡をした、ら、集合をかけてくれて…当日にも関わらず、みんなが遠方から集まってくれた。(‼︎)

何年ぶりだろう。紹介しましょう、私の友です。同じ小中学校、部活動…に留まらず、この中の一人は、私の命の恩人でもある。彼女の強さと正しさに救われて、私はぎりぎりグレもせず、生きることに絶望もせず、今に至る。

彼女たちが揃って現れたとき、『セーラー服反逆同盟』か(‼︎)と思うほどの貫禄があった(笑)。かっこよかった!
みな置かれている環境や悩みも様々だが、苦労話にも笑いあえる。違うことは違うと意見を言ってくれる。ほんとうの意味での愛を感じられる友達を持っていることに、あらためて幸せを感じてしまった…。そして、きっと迷惑だろうし…と、相変わらず水臭いフーテンの自分を反省するのであった。
友人のひとりが、車で祖母の介護施設を往復してくれた。ひとり電車で行けば2時間を要する移動が、ものの30分である。友情と車の有り難みをひしひしと感じていた。

久しぶりの再会になってしまった祖母は、少し以前より痩せたような気もするが元気であった。相変わらず介護職員さんたちに好かれていた。「頓知がきいて明るくて、お世話しがいがあるんです」と言っていただき、手土産をもう少したくさん持ってくればよかったと思いつつ、有難くて何度も頭を下げた。「この方どなた?紹介して?」という職員さんの言葉に、「東京に住んでいる麻美ちゃんです」と祖母が応えてくれて、感激した。「あなたのことが好きだと、お話を伺っていたんですよ。」という職員さんの言葉に、より深々と頭を下げた。

途中、「帰らせて欲しい」「旅行に行きましょう」辛い言葉や泣き顔も見たけれど…祖母の手に、頬に触れて、お話ができてよかった。
ベッドの脇で、私も少しも甘えさせてもらって弱音なんかをきいてもらうと、「あんた、もう帰ってきなさい」と言われた(笑) そうか、そんな場所もあったのかと、少し涙が出た。
いつも上手くできない別れ際、「おばあちゃん、では、東京に帰ってがんばってきます」となかなかその場を離れることができない私に、いつもは泣き顔の祖母が、仏のような母のような目で、手を逆招きして、早く行きなさいというように促してくれた。
自分の大変さより、私を気遣ってくれた。
とてもじゃないけど…敵わない…。
施設の駐車場で待ってくれていた友達の「どうやった?おばあちゃん。」の言葉に、なんか、めちゃくちゃ救われた。

 

間も無く100歳になる祖父と、母のいる実家に着いたのは、深夜0時をまわっていた。
親友たちと少しでも長く居たくて、最終の新幹線に乗って向かったが…どうにも、やはり遠い。

タクシーを家の前までつけると、玄関に明かりが灯り、パジャマ姿の母が例のごとく満面の笑みで迎えてくれた。
真っ暗の部屋で、祖父は椅子に腰掛けていた。もう寝間に入っていると思っていたのに、驚いた。待っていてくれたのかと思うと、大変申し訳なかった。私に気付いた祖父は、「お帰り、もう朝か?」と言った。
私が泊まる部屋には、布団が敷かれていた。
してもらう事に慣れていない私は、あれもこれも、申し訳なかった。

 

祖父は物忘れが以前よりだいぶひどくなっており、母はやはりストレスがたまっているのか、小さなことでイライラしていた。母はずっと、苦労ばかりしている…。ふと、天国にいった父たちの姿を思い浮かべて、胸が苦しくなった。

それでも母とは、母方の祖母のお墓参りに一緒に行ったり、宝塚で一番美味しいと思っているお店(丹波牛鍋の『たじ牛』さんと、父の同級生の方のお店で、若き日の父と母も訪れたことがある、ミートソースが絶品の『アモーレアベーラ』さん)にランチに出かけたり、一緒にオリンピック観戦したりした。普段は祖父が不安がるので、ゆっくり外出もできないらしい。

祖父は、部屋の中で日がな一日じっと座るしかできなくなった。
お尻が痛いというので穴あきクッションを取り寄せてみたら、「こりゃあ、あわせて作ったみたいだ。」と、足をぶらぶらさせて喜んでくれた。
一緒に散髪屋さんにも付き添った。もう一人では歩けなくなったけど、一歩社会に出たら美容師さんに堂々と話しもしており、自分の会社をしていた頃の貫禄が戻っていたようだった。待合室では、ずっと私のことをじろじろ見ている男性に対して、隣りから祖父が「なんだ⁉︎」と言って守ってくれた(笑)。驚きつつも、少し感動してしまった。受付のおばさんが飴をくれて(さすが関西)…幼き孫に戻ったような気持ちになった。
祖父の記憶は曖昧になり、「麻美にお小遣いを渡しただろうか?」という台詞を、何十ぺんと聞いた。
貰ったお金を和紙で包み、「じゃあ、ここに“私へ”と書いて」とお願いして、祖父の椅子の横に置いていたら、それを見てはまた、「忘れないうちにちゃんとしまっておけよ」と繰り返した。
きっと私は、このことを忘れないだろうと思う。

 

これまでは、帰京する新幹線で無理矢理切り替えるしかなかった。後ろ髪をひかれるものたちの世界と、自分が戦う世界と。何もできない自分が悲しくて泣いて、それを償うように、また次の機会をつくってきた。今回も『おじいは早速おばあちゃんに、無事帰れるよう祈ってたわ』という母からのメールに、涙が止まらなくなった。

いい意味で、私はスタミナがなくなってきた。すべて自分が何とかしようとすることに、ちゃんと限界を感じられる。

ふと、

毅然と見送ってくれたあの祖母の崇高な眼差しと、
今までは、ワシが死んだらおまえの母親を頼むぞと言っていた祖父が、「おまえも母さんの心配をしないで、おまえを助けてくれる誰かと幸せになったらいい」と言ったときの皺々の両手と、皺々の膝と…、優しい友人たちの顔が過ぎった。

 

『私は、それらを忘れない強さだけを持っていよう。』

そう思ったとき、少し、強くなれた気がした。

 

 

終戦記念日

 

今年は、祖父の机の上に置かれた書を手に取った。

裏表紙には毛筆で、読んで下さいという真摯さが表れた直筆の著者名があった。いまはもう、亡くなってしまわれたけれど、実際にお会いしたときは寡黙な印象の方で、こんなに壮絶な体験と悲しみを抱えているなど…本書を読むまでは知りもしなかった。
伝え残そうとしてくださる方いて、知ろうとする者がいて、それをまた伝える者がいてはじめて、歴史を重ねた意味があるのだと感じずにはいられなかった。

 

はじめに
⚫︎平成の世を迎えて
波乱に満ちた長い昭和の時代も終わり、世は平成となりました。しかしながら、年輩者の中には、心はまだ昭和の儘でいる方も多くおられるに違いありません。
私たちの年代の人々は、戦争という大きなうねりの中で多くの悲惨な体験をしてきました。しかしながら、そのような体験をもつ人々も、現在はだんだん少なくなって参りました。中国や南方など多くの戦場で筆舌に尽くし難いご苦労をされた方々が多くいらっしゃいますが、私もそのような一人です。
幸い私は無事に帰国することができ、平成の世を迎えることができました。しなしながら、私たちの今日の生活も、多くの戦争で亡くなられた方々の尊い礎の上に築かれてたものであることを私は忘れておりません。
私は、先の戦争で体験した事実を体験談として社員諸君に話して参りました。毎月の朝礼での話は一回三十分くらいで、一年間続けました。しかしながら、それはなにぶんにも四十六、七年前のことで、多くの地名、人名また日時などは忘れてしまい、現在では誠に残念に思っています。その身体もなくその魂だけが昭和の二十年八月十五日の儘に留まっている何万何千という御霊のためにも、ここで私はたとえつたない経験ではありましてもそれを後世に遺すことが大切だと確信しております。